今年の冬から畑(の小さな一角)を借りています。
思うところあって、野菜づくりをはじめました。
これまでに、スナップエンドウ、ジャガイモ、ねぎ、きゅうり、なす、トマト、スイカなどを植えています。
畑に行くのはだいたい週1回だけで、毎週土曜の夕方に行くようにしています。もし全然雨が降らなければ、水曜前後に水だけやりに行きます。畑に行く日数は思ってたよりも少なくて済んでいます。
①雑草抜きと②水やりが基本毎回行うことで、必要に応じて、③追肥、④間引き、⑤収穫、⑥種まきなどを行っています。
最近は土曜も夕方までは仕事をして、畑に行って、それから夜は家でゆっくり過ごすので、畑が平日と週末を切り替える「しるし」みたいになっています。
自分の性格がインドア派(引きこもり)なこともあり、長い間、アウトドアやDIYなど、野遊び系は疎遠でした。
数年前の地震や大雨で本格的な停電などを体験し、多少なりともサバイバル能力を身につける必要があると感じました。24時間以上電気が使えなかったり、コンビニやスーパーに行っても必要なものが買えなかったりしたので、そのときに、自分がお金や電気ガス水道に依存しきった生活をしているなあ、と感じました。
なんせ自分の性格がインドア派なもので(しつこい)、自分に野菜作りやアウトドアなど野遊びの適性があるとは思えないのですが、部分的にでもいいから、実験的に、お金をできるだけ使わずに生活する手段を獲得してみたい、ほんの少しずつでも、お金や電気ガス水道への依存を緩和していけたらいいなあ、と思っていました。
ちょっと暗い話になりますが、カネなしコネなし根性なしで事務所をはじめて、赤ん坊をかかえながら事務所経営に孤軍奮闘し、数人規模ながら法人化して事業を安定させ、ようやく仕事に安堵の兆しが見えはじめたあたりで、離婚によって娘と法人を失うまで、数年間で本当にいろいろと勉強し、いろいろと経験しました。
あまり批判的なことは書きたくありませんが、正直なところ、離婚に関して、特に子の連れ去り(参考①、参考②)に関しては、司法も実務も破壊的に無茶苦茶だと感じました。また、講師の仕事がきっかけで経済学を教えることになり、経済のしくみにも関心を持つようになりました。これら諸々をきっかけに社会の構造を自分なりに調べたり考えたりしました。
あるいは、小難しい話は抜きにしても、昨今の様々なできごとを見たり聞いたりしていると、なんというか直感的にも、お金を稼ぐことばかりに人生の時間を費やすよりも、できるなら、無理のない範囲で、お金から距離を取った暮らしを試みることが、幸福度の上昇につながるような気がしました。
畑で作業をしていると、ここは競合も顧客もいない世界だと感じます。努力と工夫が、集客戦略や営業努力を経由せずに、成果と結びつきます。自分の性分として、本来はこちらの方が向いているように思います(基本的にひとりで黙々と作業、工夫、改善していくのが好きなので)。
家庭菜園レベルでも種や苗を植えてから収穫できるまで数ヶ月はかかる点は、時間を売る対価としてすぐにお金がもらえる時給労働と比べると、だいぶ性質が違うように思いました。もしかしたら、設備や労働を投入してから成果が得られるまで、時間がかかることの方が自然なのかもしれません。
また、虫と土と植物はセットだな、と感じました。詳しい仕組みはわかりませんが、畑を上から眺めているだけでも、虫と土と植物が相互に働きかけて、ひとつの循環みたいなものができているように感じます。自分は虫が嫌いです。気持ち悪い、コワイ。日常生活では、あたかも正当な権利を主張するみたいに、おもうまま虫嫌いを主張しますが、生きる力が損なわれているのかもしれません。
当たり前のことかもしれませんが、スーパーに並んでいる野菜は農薬が本当にたくさん使われているのでしょう。農薬は、良くも悪くも、強力な効果があるのだな、と実感しました。植物から都合よく虫だけを排除して、副作用について考えないのは楽観的すぎるのかもしれません。
結局、種や苗は買わないといけないんだな、とも感じました。自給自足は本当に難しいのだと思います。昨年は種苗法の改正などが話題になっていましたが、私たちは知らないうちに大きな大きな網の目で管理されていて、その網から逃れることはできないのかもしれません。
種苗法の改正といえば、主流派経済学、新自由主義、あるいは資本主義社会の根っこの部分は、みんなが「いまだけ」「カネだけ」「自分だけ」の論理で利己的に行動すれば社会全体の幸福度は最大化される、と考えるようですが、ともすると欺し合い、憎み合い、奪い合うように設計されている市場競争が、自分たちに個人的な幸福をもたらしているようには、なかなか実感できません。
身近なところでは、たとえば最近は家事、恋愛、結婚などが顕著に市場化してきているように思います。家事代行サービス、恋愛アプリ、婚活アプリなどの普及によって、私たちの幸福度は上がったんでしょうか?市場化すると、商品の情報が行き渡り、参加者に選択肢が増え、需要と供給で価格が決まるようになります。つまり、競争が激しくなります。
司法書士をはじめ、士業全般がさらなる競争にさらされていくのは簡単に予測できるところですが、長期的には電気ガス水道、場合によってはロボコップの映画みたいに、官庁や警察まで民営化が進み、競争にさらされていくのも、あり得ないことではないかもしれません。
自分のような庶民が生きるためには労働してお金を稼ぐことを避けられませんが、個人的には、お金を使わずに生活したり満足したりする手段を、ほんの少しずつでも積み上げていきたい。支払に追われたり、お金を稼ぐために思考を巡らしたり、お金のために望まない行動を強いられたり、偶然のお金の得失で一喜一憂したり、お金の価値を必要以上に盲信し、お金の流れに従い手のひら返して態度を変える人と付き合ったりするのは、控えめに言って、しんどい。
ただ一方で、大きな視点で見ると、価格で利用量が調整されなかったり、情報が囲い込まれたり、市場に参加する機会が合理的理由なく制限されていたりすると、それはそれで問題がでてくるのかもしれません。たとえば先着順であれば、去年のマスク買い行列みたいに、「時間があって、お金は使いたくなくて、本当はそんなに必要としてない人たち」が先取りしてしまって、本当に必要な人には行きわたらない、みたいな弊害も考えられます。
価格が「異なる価値観を同期する歯車」になって、取引量が自動的に最適にコントロールされる仕組みは、今もなお、どんなコンピューターよりも、どんな天才の判断よりも、優れている側面があるのかもしれません。
市場競争が隅々まで行き渡った世界が住みよいのか苦しいのかはわかりません。明治、大正、昭和の時代もそれぞれ相当に大変だっただろうし、生きる大変さの外側の形が変わるだけなのかもしれません。しかしいずれにせよ、小さな視点で見ると個人に社会のしくみを選択する自由はありません。
情報化の流れはもはや自然現象のように強い影響力になってるわけで、基本的に私たちはそれらに従うしかありません。いかに荒波に耐え、乗り越えていくかにアタマを使うべきなんだと思います。自分にできる目の前の小さなことをやっていくしかないです。
つまり、いつまでもこんな地に足のつかないような事をグダグダと書いてないで、とっとと自分の仕事に戻るべきなんでしょう…
・・・話を戻すと、自分で作った野菜はすごく美味しいです。気分の問題もあるかもしれませんが、取れたての野菜はみずみずしく、力強く、シンプルで、ありのままで、味が美味しい。
これまでには、スナップエンドウを塩ゆでやバター炒めにしたり、ジャガイモでじゃがバター、ジャーマンポテト、コロッケ、ガレット、ポテトチップスをつくったりしました。
今後の長期的な目標としては、基礎的な知識を少しずつ身につけて、それなりの大きさの畑をまるごと1人で管理できるようになれたらいいなと思います。短期的な目標としては、虫に慣れることでしょうか…
GoogleやYouTubeで必要な情報が簡単に手に入るのはITが普及した利点かもしれません。未知のことを始めるハードルは従前よりだいぶ低くなっているように思います。
おかげさまで、このところ、事務所の方はかなり忙しくさせていただいておるところなのですが(本当にありがとうございます)、こちらの野菜作りの方もなんとか…、あせらず、サボらず、少しずつ、続けていきたいです。